横浜地方裁判所 平成6年(行ウ)25号 判決 1995年12月21日
原告 山木美智子
被告 横浜北労働基準監督署長
代理人 山田知司 湯川浩昭 小林恭三 清住碩量 近藤晃 池上照代 ほか三名
被告 労働保険審査会
代理人 山田知司 湯川浩昭 小林恭三 清住碩量 近藤晃 池上照代 ほか四名
主文
原告の請求をいずれも棄却する。
訴訟費用は原告の負担とする。
事実及び理由
第一請求
一 被告横浜北労働基準監督署長が原告に対し平成四年四月三日付けでした労働者災害補償保険法による保険給付全部不支給決定を取り消す。
二 被告労働保険審査会が平成六年一月二五日付けで受理した原告の労働者災害補償保険再審査請求につき、何らの裁決をしないことが違法であることを確認する。
第二事案の概要
一 本件は、
1 原告が業務上の事由により負傷し、障害が残ったと主張して、労働者災害補償保険法(労災保険法という。)に基づき、被告横浜北労働基準監督署長に休業補償給付の支給請求及び障害補償給付の支給請求をしたところ、同被告から、保険給付全部不支給決定(本件決定という。)を受けたため、同被告に対し、本件決定の取消しを求め、
2 原告が本件決定について神奈川労働者災害補償保険審査官に審査請求したがこれを棄却されたため、被告労働保険審査会に再審査の請求(本件再審査請求という。)をしたところ、本件口頭弁論終結時までにこれに対する裁決がなく、同被告が再審査請求受理後相当期間経過しているのにもかかわらず何らの裁決をしないのは違法であると主張して、右不作為が違法であることの確認を求める事案である。
二 争いがない事実及び確実な証拠により認められる事実
1 原告は、新聞販売店を経営する有限会社広田商事(本店所在地・横浜市緑区市ヶ尾町一七三七番地。訴外会社という。)の従業員(学生社員)として、同社港北ニュータウンセンター南営業所(同区荏田南二丁目一三番一七号所在。南営業所という。)で新聞配達員をしていたところ、平成元年六月一一日午後二時一〇分ころ、同僚の飯野昇(飯野という。)の引越しの手伝いに行くため訴外会社所有の原動機付自転車(本件バイクという。)を運転して走行中、同区荏田南三丁目一〇番先の信号機、標識のない市道交差点においてタクシー運転手の上野英史が運転する普通乗用自動車と出合い頭に衝突し、脳挫傷、外傷性クモ膜下出血等の傷害を負った(本件事故という。)。(<証拠略>)
2 原告は、平成二年一二月二六日労災保険法に基づき、被告横浜北労働基準監督署長に対し、本件事故につき休業補償給付の支給請求及び傷害補償給付の支給請求をしたところ、同被告は、平成四年四月三日原告に対し、右引越しは私的行為であり、これを手伝うことにつき事業主の特命行為があったとする事実も認められないので、業務上とは認められないという理由で、保険給付全部不支給の本件決定をした。
3 原告は、本件決定を不服として、平成四年五月二二日神奈川県労働者災害補償保険審査官に対し審査請求をしたが、平成五年八月二六日右請求は棄却された。そこで、原告は、被告労働保険審査会に本件再審査請求をし、同被告は、平成六年一月二五日右再審査請求を受理した。
原告は、同年七月二五日本件訴えを提起した。
4 被告労働保険審査会は、本件再審査請求について審理期日を平成七年九月二八日と定めて、同年八月二四日付け文書で請求人(原告)及び代理人に通知した。同被告は、右審理期日に審理を開催して、同日審理を終結したが、本件口頭弁論終結時(平成七年一一月七日)までにこれに対する裁決をしていない。
三 争点及び争点に関する当事者の主張
1 争点1
原告の負傷が業務上の事由によるものであるか、否か、その前提として、原告が飯野の引越しを手伝うことに業務遂行性及び業務起因性が認められるか、否か。
(一) 原告の主張
(1) 労災保険法一条は、業務上の事由又は通勤による労働者の負傷、疾病、障害又は死亡に対して必要な保険給付を行うこととしているが、同条にいう「業務」とは、労働者が労働契約の本旨に基づいてする行為であり、労働契約によって労働者が事業主のためになすべきことを命ぜられた行為以外の行為であっても、事業主の事業目的達成のために行われ、その効果が事業主の利益に帰するような行為は労働契約の本旨に基づく行為であって、「業務」に含まれる。そして、業務上の事由による負傷かどうかの基準は、「業務遂行性」と「業務起因性」であるが、「業務遂行性」とは、労働者が労働契約に基づき事業主の支配下にあることをいい、その管理下を離れて業務に従事していても業務遂行性があるといえる。
(2) 原告は、訴外会社の学生社員(新聞奨学生)であり、飯野は専業社員(正社員)であったが、学生社員は日頃より専業社員からの諸々の依頼を断り難い状況にあり、また、原告は、南営業所の店舗の二階にある訴外会社の寮に居住し、食事も南営業所内の食堂でしていて、会社の業務と私生活の区別は判然あるいは厳密にはなされ得ない状況にあった。しかして、飯野の引越しは、会社の寮から会社の寮への引越しであったところ、原告は、右食堂において、朝刊の配達が終了した時刻と接着した朝食の際、店長の六十苅稔(六十苅店長という。)から、「女の子なんだから手伝ってあげなさい。」などと指示され、これを了承したもので、本件引越しの手伝いは、六十苅店長の業務命令に基づくものであった。しかも、原告は、引越しの手伝いに行くために、訴外会社所有で、原告専用のものとして貸与されて、原告が業務上使用し、管理している本件バイクを使用しており、六十苅店長の引越しの手伝いの指示も、これを当然の前提としていたのである。
したがって、本件引越しの手伝いは、原告が労働契約に基づいて事業主の支配下において従事しようとしていた行為であるということができ、業務遂行性が認められる。そして、引越しを手伝うために本件バイクを運転して手伝先に赴く行為と本件事故に遭遇して本件傷害を負ったこととの間には相当因果関係があるといえるから、業務起因性も認められる。
(二) 被告横浜北労働基準監督署長の主張
(1) 当該災害が労災保険法一条にいう「業務上」のものであると認められるためには、使用者が労働者に従事させていた業務と当該災害との間に条件関係があることを前提としつつ、両者の間に法的にみて労災補償を認めるのを相当とする関係があることが必要である(業務起因性)。そして、災害性傷病の業務起因性を判断するに当たっては、労働者が労働契約の下にあること、すなわち、労働者が労働契約に基づき事業主の支配下にあることが必要であるとされている(業務遂行性)。かくして、災害性の傷病が労災保険給付の対象となる業務上の災害と認められるためには、当該災害が業務遂行中に、すなわち、使用者の指揮命令に拘束されている時間内に発生したことを要するのである。
(2) 原告が勤務していた南営業所では日曜日は夕刊の配達がないため、朝刊の配達が終わり次第その日の業務が終了する形態であった。原告が本件事故に遭遇した日は日曜日であるから、朝刊の配達が終了したことにより労働契約に基づく原告の業務は終了した。そして、原告が手伝おうとした飯野の引越しは、飯野の個人的事情によりなされたもので、事業主等の業務命令に基づき行われたものではない。仮に、六十苅店長から飯野の引越しの手伝いについて原告らに依頼があったとしても、引越しの開始時間及び終了時間、引越し作業に従事すべき必要時間及び必要人員等の事項や、通常とは異なる業務に従事させるに当たっての具体的な指示はなく、本来の業務が終了した後に特に原告に対し時間外業務を行わせる業務命令も、時間外手当についての指示もなかったのであるから、それは、自己の意思によって右引越しを手伝うものを斡旋する趣旨の発言にすぎず、事業主等から積極的特命行為があったとみなし得るものではない。
したがって、飯野の引越しの手伝いには業務遂行性も業務起因性も認められない。
2 争点2
本件再審査請求に対し裁決すべき相当の期間を経過していて、被告労働保険審査会が右裁決をしない不作為が違法であるか、否か。
(一) 原告の主張
被告労働保険審査会は、本件再審査請求を平成六年一月二五日に受理した後、約一年八か月もの期間を無為に徒過し、平成七年九月二八日に至ってようやくこれに対する審理を行ったが、その裁決は未だなされておらず、いつ裁決がなされるかも未定であって、行政庁が当該行為をするのに通常必要な期間を基準としての行政事件訴訟法三条五項に定める「相当の期間」を経過している。被告労働保険審査会は、多数の未済事件を抱え、一件の処理に二年以上の期間が必要である旨主張するが、行政庁が当該行為をするのに通常必要な期間とは、あくまでも当該事件の内容自体に照して判断されるべきであって、未済事件の件数等の事情は付随的に斟酌されるにすぎない。そして、一件の労働保険再審査請求事件の処理に通常必要とする期間を二年以上とすることは、行政運営における公正さの確保と透明性の向上を図り、迅速な行政手続により国民の権利利益の保護を図ろうという行政手続法の精神に背くものであって、右の事情等は到底、「期間を経過したことを正当とするような特段の事情がある場合」には該当しないというべきである。このように、被告労働保険審査会は、通常要すべき相当な期間をはるかに超えて本件再審査請求を不当に長期間放置しているものであって、かかる不作為は違法である。
(二) 被告労働保険審査会の主張
(1) 行政事件訴訟法三条五項に定める「相当の期間」とは、行政庁が当該行為をするのに通常必要な期間を意味すると解され、相当な期間を経過したか否かは、右通常必要な期間を基準として、具体的事案について個別に判断されるべきものである。しかして、被告労働保険審査会は、毎年七〇〇件前後という膨大な繰越件数を抱えた上、年間二五〇件前後の新規請求を受理しながら、審理を経て三〇〇件近くの裁決を行い、誠実かつ精力的に労働保険再審査請求事件を処理しているのであって、行政手続の公平、適正の観点より受理した事件から優先的に処理すべきため、一件の処理に通常必要な期間は二年を超えるものとなるが、それもやむを得ない現状にある。
(2) 被告労働保険審査会は、平成六年一月二五日本件再審査請求を受理した後、原処分庁である被告横浜北労働基準監督署長に意見書の提出を求め、かつ、一件記録を送付させるなど、通常の労働保険再審査請求事件の処理と同様の資料収集の手続を遂行した末、審理の期日を平成七年九月二八日と定めて、同年八月二四日付け文書で請求人(原告)及びその代理人に通知し、審理が同日開催されて、同日終結したのであって、本件再審査請求のみをいたずらに放置しているものではない。本件再審査請求については、その受理の日から本件訴訟提起(平成六年七月二五日)までには六か月しか経過していないし、本件口頭弁論終結時までに一年一〇か月しか経過しておらず、被告労働保険審査会が裁決するのに通常必要な期間を経過しているとは到底認められない。
仮に右期間を経過しているとみられるとしても、右に述べた被告労働保険審査会に係属する事件数等の現状からすれば、「期間を経過したことを正当とするような特段の事情がある場合」に該当するものというべきであり、被告労働保険審査会に本件再審査請求の処理についての不作為の違法が認められる余地はない。
第三争点に対する判断
一 争点1について
1 <証拠略>によると、次の事実を認めることができる。
(一) 原告は、平成元年三月二九日新聞販売業を営む訴外会社に学生社員(新聞奨学生)として入社し、訴外会社の南営業所で新聞配達員として勤務しながら大学受験予備校の代々木ゼミナールに通っていた。
(二) 南営業所では、六十苅店長の下、主任、副主任各一名、専業社員は飯野を含めて三名のほかに、原告を含めた学生社員(新聞奨学生)が一二名、事務員二名の人員体制であった。そして、勤務時間は、専業社員は平日の午前三時三〇分から同七時まで、午後一時から同六時まで、学生社員は平日の午前四時から同六時三〇分まで、午後四時から同六時までと定められており、日曜、祭日は夕刊の配達がないため、専業社員、学生社員とも朝刊の配達が終わると勤務時間が終了することになっていた。学生社員は、右勤務時間以外は原則として自由時間であったが、たまには店長等に指示されて本店への遣いなどをすることもあった。学生社員の業務は朝・夕刊の配達が主なもので、基本給は月給で決められており、そのほかに、集金業務をすると、その割合に応じて手当が支給された。南営業所店舗所在のマンションの二階には訴外会社の寮があり、南営業所の社員は、店長以下、原告も含めて多くはそこに居住しており、独身者は南営業所の食堂で食事をとっていた。飯野と四元純一及び島田真琴の三名は、南営業所の近くにある、訴外会社借上げのビューハイツ荏田一階(横浜市緑区荏田南四丁目所在)に同居していた。南営業所の配達員には原告を含む全員に訴外会社から新聞配達用に原動機付自転車(バイクという。)が貸与されており、各人が個々に管理し、私用にも使っていた。
(三) 飯野は、かねてから一人暮らしを希望しており、南営業所により近い、同市同区荏田南三丁目エーブリッジ荏田南三階にある訴外会社の寮に引っ越すことになった。しかして、引越し当日の平成元年六月一一日(日曜日)、朝刊の配達が終了した後、専業社員の四元、学生社員の島田、大西弘伸、大里洋子、神澤和日子と原告らが食堂で朝食をとっている際、飯野がその場で「誰か引越しを手伝ってくれないか。」と声をかけたが、誰も返事をしなかった。そこへ六十苅店長が居室のある二階から下りて来て、「仲間だから手伝ってあげて。」と言い、その後、原告、大里、神澤の三名に、「女の子なんだから手伝ってあげなさい。」と言ったが、神澤はアナウンスの学校に通うので手伝えないと言って断った。原告は、入社して二か月余しかたっておらず、飯野と親しく付き合っていたわけでもなく、その日大西と買物に行く予定でおり、大里とともに、休日で外に出かける所がある旨言って躊躇していたが、結局、六十苅店長の指示を受けて、飯野の引越しを手伝うことにした。
(四) 原告と大里は、数時間仮眠した後、昼ころ二人連れ立って、それぞれ貸与されている訴外会社所有のバイクに乗ってビューハイツ荏田に向かったところ、途中で大里のバイクがパンクして立ち往生してしまったが、原告は先に行ってしまい、大里は一旦南営業所に戻り、バイクを置いて徒歩で右マンションに向かった。この間に原告は本件事故に遭遇した。
2 右認定事実に基づき判断する。
(一) 労災保険法一条は、業務上の事由又は通勤による労働者の負傷、疾病、障害又は死亡に対して必要な保険給付を行うこととしている。しかして、当該傷病が業務上のものと認められるためには、それが労働者と使用者との労働契約に基づく使用者の支配関係下において生じたものであること(業務遂行性)及びそれが労働契約に基づいて使用者の支配下にあることの危険が現実化したものと経験則上認められる関係にあること(業務起因性)が必要であると解するのが相当である。
(二) そこで、本件事故による原告の傷害について、業務遂行性及び業務起因性が認められるか検討する。
まず、原告が従事しようとしたのは、飯野の行う訴外会社の寮から寮への転居に伴う引越作業の手伝いであるが、それは、日曜の朝刊配達が終了した後の勤務時間外に、専業社員の飯野が私的に行う引越しの手伝いであって、原告の担当していた新聞配達及び集金という本来の業務と全く異なるものであり、また、原告の本来の業務に付随する、担当業務の遂行に伴う必要かつ合理的な行為とも目し得ない私的行為といわざるを得ない。もっとも、原告は、六十苅店長から特に原告ら三名を指名して飯野の引越しを手伝うよう指示があったため、入社して間もないこともあって、これを断り切れずに手伝いをしようとしたことは認められるが、具体的な引越作業の手順・分担、従事する人員、集合場所・時間、引越しの開始時間、終了時間等については六十苅店長から何も指示はなく、まして勤務時間外に行われる引越しの手伝いについて時間外手当をどうするかという話しもなく、指名された三名のうち神澤は私用を理由にこれを断っているのである。それゆえ、六十苅店長の右指示は、飯野自身が同人個人の引越しの手伝いをしてくれる者を募っている際、これに助言して、手伝う者を斡旋するという私的な依頼の域を出るものではないと解され、これを業務指示命令と解することは困難である。原告は、六十苅店長の依頼もあって、結局は自己の意思による好意で、当日の勤務時間終了後に行われる同僚の引越しの手伝いをしようとしたもので、本件事故は、原告が本件バイクに乗って右私的な引越作業の手伝いに出かける途中に発生したものである。したがって、本件事故は、労働契約に基づく使用者の支配関係の下において生じたものとはいえないから、業務遂行性が認められない。また、本件事故は、使用者の支配下にあることの危険性が現実化したものといえないことは明らかであるから、業務起因性も認められない。原告は、業務上の事由により負傷したとはいえない。
(三) 以上によれば、本件事故に係る原告の労災保険給付請求(休業補償給付の支給請求及び障害補償給付の支給請求)について被告横浜北労働基準監督署長がした保険給付全部不支給の本件決定は相当であって、何ら違法なところはない。
二 争点2について
1 (訴えの利益について)
原告は、被告横浜北労働基準監督署長がなした本件決定を不服として、神奈川労働者災害補償保険審査官に対し審査請求をし、これが棄却されたため、被告労働保険審査会に本件再審査請求をし、その裁決がなされる前に、本件決定についての取消訴訟と被告労働保険審査会の不作為の違法確認訴訟を併せて当裁判所に提起した。そして、争点1についての認定及び判断の結果によれば、本件決定の取消しを求める訴えは理由がないからこれを棄却すべきところ、第一審の裁判所において本件決定に対する取消請求が棄却されたからといって、被告労働保険審査会において相当の期間内に本件再審査請求に対し裁決をなすべき法律上の義務が消滅することはないのであるから、原告が被告労働保険審査会に対し、本件再審査請求に対する裁決をしない不作為の違法確認を求める訴えの利益が失われるものではない。
2 そこで、被告労働保険審査会が本件再審査請求に対し裁決しない不作為が違法であるか検討する。
(一) 行政事件訴訟法三条五号に規定する、行政庁が処分又は裁決をすべき「相当の期間」は、行為の種類、内容、性質等により異なり、一概にこれを決することはできないが、本件にあっては、被告労働保険審査会が一般に再審査請求に対し裁決をなすのに通常必要とする期間を基準として、通常の所要期間を経過した場合には、原則として被告労働保険審査会の不作為は違法となるが、右所要期間を経過したことを正当とするような特段の事情が同被告に認められる場合は、違法性は阻却されるものと解するのが相当である。
(二) ところで、本件決定のような保険給付に関する決定に不服のある者は、労働者災害補償保険審査官に対して審査請求をし、その決定に不服のある者は、労働保険審査会に対して再審査請求をすることができるものとされ(労災保険法三五条一項)、また、保険給付に関する決定の取消しの訴えは、再審査請求に対する労働保険審査会の裁決を経た後でなければ提起することができないものとされている(同法三七条)。その趣旨は、多数に上る保険給付に関する決定に対する不服事案を迅速かつ公正に処理すべき要請に応えるため、専門的知識を有する特別の審査機関を設けた上、裁判所の判断を求める前に、簡易迅速な処理を図る第一段階の審査請求と慎重な審査を行い併せて行政庁の判断の統一を図る第二段階の再審査請求を必ず経由させることによって、行政と司法の機能の調和を保ちながら、保険給付に関する国民の権利救済を実効性あるものとしようとするところにあると解される(最高裁判所平成七年七月六日第一小法廷判決、裁判所時報一一五〇号七頁参照)。
以上に述べた保険給付に関する決定に対する救済制度の趣旨に照らして本件をみるに、被告労働保険審査会が本件再審査請求を受理してから本件口頭弁論終結時まで既に一年一〇か月を経過していることは争いのないところであり、神奈川労働者災害補償保険審査官による決定は審査請求から一年三か月でなされていること、本件再審査請求事件の争点は勤務時間外の同僚の引越しの手伝いに業務遂行性があるかというものであり、さほど複雑困難とも思えない事案であることを勘案すると、<証拠略>により認められる次の各事実、すなわち、被告労働保険審査会においては、原処分庁等から提出のあった意見及び関係資料のうち、直接審理に関係ないもの、第三者の利益を害する虞のあるもの等同被告が相当でないと判断したものを除いて印刷物にした上で、審理期日よりも概ね四週間前に再審査請求人等の当事者に送付し、再審査請求人が不服とする内容と主張すべき事項を事前に取りまとめ、審理期日に有効な意見陳述が行えるよう、一定の措置を講じた上、公開審理を行うものとされていること、本件再審査請求事件についても右の一般的処理方針に則って同様の事前準備を行った上、既に審理を終結している(前記第二の二の4のとおり。)ことを併せ考慮しても、本件口頭弁論終結の時点においては、被告労働保険審査会が再審査請求に対し裁決をなすのに通常必要とする期間は既に経過しているといわざるを得ない。したがって、これを正当とするような特段の事情が認められない限り、被告労働保険審査会の右不作為は違法と評価される。
(三) そこで、右期間を経過をしたことを正当とするような特段の事情の有無について検討する。
(1) 被告労働保険審査会は、両議院の同意を得て内閣総理大臣が任命した委員六名をもって組織され、委員のうちから被告労働保険審査会が指名する者三人をもって構成する合議体で、再審査請求の事件又は審査の事務を取り扱うこととされており(労働保険審査官及び労働保険審査会法〔労審法という。〕二六条、三三条一項)、被告労働保険審査会の内規により、労災保険法三五条一項の規定による再審査請求事件を取り扱う合議体は二体置かれている(<証拠略>)。
(2) <証拠略>によると、平成元年から五年間の労働保険再審査請求の取扱件数は別紙のとおりで、被告労働保険審査会は、毎年二五〇件前後の件数の新規請求を受理しながら、三〇〇件近い件数の裁決を行っているが、毎年七〇〇ないし八〇〇件の前年繰越件数があって、平成五年度の残件数は六四四件あったこと、一合議体当たりの処理対象件数は年間四八〇件前後となり、そのうち毎年一五〇件前後の裁決を行っていること、再審査請求事件は、いわゆる過労死を始めとして、じん肺症患者に発生した肺癌など業務起因性等の判断に困難を伴う事案が増加するなど請求の内容が複雑、多様化していること、これに対し合議体の増置のための委員の増員には法律改正を要し、また、委員及び事務担当職員の増員には予算や定員管理上の制約もあり、これを直ちに実施することは困難で、現体制の下で更に裁決の件数を大幅に増加させることは極めて困難な状況にあること、被告労働保険審査会は、公開審理を必ず経なければならないとされている(労審法四二条ないし四五条)が、被告労働保険審査会の内規により原則週一回これを開催し、平成六年度までは一回当たりの審理件数は七件程度であったが、平成七年度からこれを九件程度に増加させていること、再審査請求事件は原則としてすべて等価値のもので、行政手続に要求される公正さの観点から、受理した事件から順次公開審理に付することとせざるを得ないこと、したがって、これらの諸事情から、一件の労働保険再審査請求事件の処理には二年を超える期間を要する状況となっていること、以上の事情が認められる。
そして、平成七年九月二八日本件再審査請求について審理が開催されて同日終結したことは、前記のとおり争いがないところであるが、<証拠略>によると、被告保険審査会では現在、本件再審査請求について裁決書を作成中であり、平成七年内には裁決書の作成及び原告への送達を完了する意向であることが認められる。
(3) 以上の事情を斟酌すると、被告労働保険審査会が本件再審査請求に対し裁決するのに相当の期間を経過したことを正当とするような特段の事情がある場合に該当するということができる。したがって、本件再審査請求に対し被告労働保険審査会が未だ何らの裁決をしない不作為は、結局、違法ということはできない。
第四結論
以上により、原告の被告らに対する請求はいずれも理由がないので、棄却することとして、主文のとおり判決する。
(裁判官 渡邉等 木下秀樹 間史恵)
平成元年度から同五年度までの労働保険再審査請求の取扱件数等
年度
前年繰越
請求件数
裁決件数
取下件数
残件数
元年
七八二
四四二
二九七
一五
九一二
二年
九一二
二八四
三一六
一〇
八七〇
三年
八七〇
二六二
三七四
一二
七四六
四年
七四六
二五四
二九九
八
六九三
五年
六九三
二四六
二八八
七
六四四